カテゴリー「介護」の記事

母の誕生日

今日8月2日は母の87歳の誕生日だった。

週末に外泊を予定していたが、都合がつかず断念。今朝早くに施設を訪問。

昼食前のおやつの時間を狙って、母の好物の「どら焼、大福、カステラ」をお土産に持っていった。

母と夫と3人で応接室でささやかなお誕生日会。母は糖尿病予防のためにカロリーをおさえた食事をしているのだが、今日は、好きなものを食べさせてあげたいと思って、お菓子を持っていった。母は「大福を食べたい」と言って一つ食べた。「来年は米寿だね」と言うと、「ええ、そんな歳になったの。私はまだ82歳だと思っていた」と笑っていた。いつも82歳と思っていたほうがいいと思った。

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お彼岸で

21日の午前中に母を施設に迎えに行き、そのまま車で横須賀の実家へ行きました。母にとっては2年ぶりの我が家です。高速道路の横須賀横浜道路は、特にお彼岸の時期は朝比奈インターでいつも渋滞します。いつもなら1時間ほどで着くはずのところが、2時間以上もかかってしまいました。

「何処へ行くの?」と何度も聞く母に、横須賀の自分の家へ行くのだと答えますが、しばらくすると、また同じ質問をします。そんな事を繰り返しながら、高速を降りて家の近くまで行くと、「ああ、この先を右に曲がって、公園がある近くなのよ」と言い出しました。記憶が甦ったようで、声が弾みました。

実家では、兄と義姉が昼食を用意して待っていてくれました。母は自室の仏壇に線香をあげ手を合わせていました。

夕方に戻り、私のところで1泊して、今日再び施設に帰りました。いつもなら一晩寝ると、忘れてしまう事が多いのですが、昨日の事は良く覚えていました。Photo

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訪問再開

1月の下旬から、母の介護施設は訪問ができなくなっていました。

近隣の施設でインフルエンザの集団感染が起き、亡くなった方がいらしたのです。テレビや新聞でも報道されていました。

その翌日、母のところへ訪問に行くと、入り口に貼り紙があって、「今朝の緊急会議で決まりしばらくの間面会をお断りします」とありました。面会ができるようになったら、通知が来るという事でした。そして、3週間が過ぎた頃、訪問が再開されたので、夫と息子と3人で面会に行ってきました。忘れてはいまいかと不安になりましたが、いつも通りでした。ほかの入所者の方々も皆さん元気で安心しました。

28日に、兄が様子を見に来ると連絡があったので、外泊届けを出して、母を家に連れてきました。兄が作った鯛のお刺身を美味しそうに食べて、一晩ぐっすり眠って、翌日の夕方に送り届けました。翌日には兄が来た事もお刺身を食べた事も忘れていましたが、最近は、その時が楽しければ良しとしましょう、と思っています。

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運動会

23日に、母の施設で運動会がありました。国旗や花飾りは手作りです。
携帯で取ったので写真がボヤケていますが、チアガールのお兄さん(?)4人はいつも介護をしてくださる頼もしい男性スタッフです。
バッチリメイクのカワイイチアガールに おじいちゃんおばあちゃん達は 口をぽかんと開けて見とれていました。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
応援合戦、玉入れ競争、ピンポン玉リレー、ラムネ早飲み、飴玉さがし・・・等々盛り沢山のプログラムです。
スタッフさんのガンバリのお蔭で楽しい運動会が出来ました。
昼食もこの日はお弁当仕立てになっていて、雰囲気を盛り上げてくださっていました。
スタッフの皆さん、栄養士さん、調理の方々に感謝です。

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困惑

先週の日曜日、叔母たちが母の施設を訪問してくださった。母は5人兄弟の長女で、女4人に挟まれて育った叔父は42歳の若さで亡くなっているが、4人姉妹は元気でいる。母を含め3人は生まれ育った実家の近くに住んでいるが、母のすぐ下のH叔母は博多で独り暮らしをしている。叔父も亡くなり、子どももいない叔母は、誰の世話にもならずに一人で残りの人生をまっとうするつもりでいると言っていた。しかし、その叔母が最近認知症が進んでいるようだとT叔母から電話があった。住んでいるマンションの管理人やお世話をしてくださっている近所の方から一人で置いておくのは無理では、と言われたうえ、母の顔を見たいと言っているので、7月末に博多からH叔母を連れて来て、そのままT叔母のところで面倒を見ながら近所に適当な施設を探すつもりだと言う事だった。

母には叔母たちが訪問してくれる事を話しておいた。訪問の予定を忘れている時と覚えている時が交錯していたが、叔母たちが来てくれた時は楽しそうに話していた。母と叔母は2歳違いだが、2人の会話は「私も、もう85歳になってしまったのよ」(H叔母)、「あら、私も85歳よ」(母)、と終始こんな感じ。博多と横須賀を往復して面倒を見ているT叔母も78歳で、決して若くはない。T叔母が博多を訪ね掃除や洗濯をしてくれている事もH叔母は分かっていないようで、往復の飛行機代などの費用もすべてT叔母は自分のへそくりでやりくりしている。H叔母はそのあたりの配慮が出来なくなっているらしかった。H叔母はポックリ死ぬ事しか考えていないが、実際は認知症が進み日常生活が困難になった時、誰が面倒をみるかという問題が生じてくる。資産管理、不動産の処分など、兄弟姉妹、甥姪が出来る事にも限界がある。

母は、自分の部屋の隣のベッドを指して「あなたもここに来たら良いのに」と言っていた。

「叔母さんそうしたら?」とは言えない私。困惑。Himawari2

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野菜の苗をプレゼント

老健施設にいる母に、母の日のカーネーションの代わりに、野菜の苗をプランターに植えて持っていきました。相談員の方にお願いして、施設の屋上に置かせて頂いたのです。管理はこちらでします。もし、他の入所者の方が引っこ抜くようなことがあっても、一切問題にしませんので(精神科の入院患者の方がいて、相談員の方はそのことを心配されていました)。そんなやり取りがあって、2つのプランターを置く事が許されました。

1つにはナスを1株、オクラを3本。もう1つには赤のパプリカと野菜ばかりでは淋しいかなと思い白いダリアを植えました。フェンスの脇に遠慮がちに置かれているプランターを見て、母は、「楽しみだねぇ」と顔をほころばせてくれました。庭いじりが好きな母は、屋上へ行く度に、花壇の雑草を抜いては楽しそうにしていたのです。施設での催しは、あまり気が進まない様子で、折り紙も、カラオケも、粘土細工も参加しないでいたのです。何か母が楽しめる物はないかと思いを巡らせて、園芸をさせてもらう事にしました。花が咲いて、実るのを楽しみにしてくれるといいなと思います。

昨夜の嵐に、まだ楊枝の太さほどの弱々しいオクラの苗が耐えてくれたか心配しています。

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なんと言うか・・・

先月、発熱と関節の痛みを訴えていた母は、結局、熱が下らないまま隣接の病院へ検査入院となってしまったのでした。11月28日の朝、老健の担当者から電話連絡をもらい、慌てて出向くと、既に母のいた部屋は綺麗に片付けられていて、荷物もまとめられてありました。老健は介護保険を使用しているのですが、病院は健康保険を使うため、入院と同時に老健は退所扱いとなるのだそうです。

入院から3日ほどで熱も下がり、痛みも治まりました。検査もいろいろ受けたようでしたが、結局原因が分からず終いでした。さて、そうなると病院には用がないのですが、隣の老健の施設にはすぐに戻れない事が分かりました。再び入所するための書類と審査が必要になるのです。しかも、既に部屋は満室と言う事で、来月下旬までは無理らしい、との返事でした。どこも痛くなく、起き上がりたい母をあとひと月半もベッドの上に寝かせたままにしておくのは、心配です。足も弱るし、頭も弱ります。トイレに行きたいという母に、オムツで用を足して下さい、と言う看護士とポータブルトイレを使わせてはくれないか、と交渉します。ため息が出てきます。他の部屋の老人はみな寝たきりなのです。いちいちトイレコールに付き合うより、定時にオムツ交換をしている方が、仕事が捗るからでしょう。これが老健と病院の違いの大きなところです。

このまま、寝たきりにされては困るので、セッセと病院へ通います。母をベッドの上に座らせて、手足を動かします。頭の体操も兼ねていろいろと話をします。昨日は、ナンクロの本を買って行きました。鉛筆を麻痺の残る右手に持ってクロスワードのマスを埋めていきます。集中力も必要ですから、リハビリには良いと思います。

クリスマスも正月も病院で過ごす事となってしまいました。病院の中にもクリスマスの飾りつけがされています。誰もいないディールームのツリーは淋しそうです。

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月、水、木、土

介護老人健康保健施設に入っている母のところへ行く日を、(月)(水)(木)(土)と決める事にした。それまでは、行ける限り行こうとしていたが、無理は続かない、と考えて自分の心の中で決めた。今までも、(火)(金)は仕事があるので、それを理由にできた。(水)は自分の病院通いがある日は、行かれなくても気持ちが楽になった。日曜日は、家族との時間を軸に考えるようにしようと決めた。(土)(日)の休みの両方とも、母のために時間を割いてくれる夫に申し訳ない気持ちからだ。こちらを立ててれば、あちらが立たず、と言う思いもあるが、先の長い話なので、上手くやっていくしかない。

母は、私が何時来たのか、何日ぶりに来たのか、全く分からない。帰る時に、「今度は、○曜日に来るね」と、声をかける。土曜日に夫と面会に行った時に、右手が痛いと言っていた。湿布を貼っていたが、それ以外は元気にしていたので、心配はしていなかった。

日曜日は、久しぶりに娘と買い物に出かけた。夕方に戻って、着替えをしていると、実家の義姉から電話があった。施設から電話があって、熱が38度5分あり、家族に連絡をして欲しいと言っているので、電話をした、と言う話だった。手違いがあって、私のところではなく実家の方へ電話がいったらしい。慌てて、脱いだ服をもう一度着て、車に乗って母のところへ行った。母は、「痛い、痛い」と言いながら、ベッドの中にいた。額を触ると熱い。自分が家族を呼んでほしいといった事は、すっかり忘れていて、「あら、来たの? 今日は随分遅いのね」と、呑気に言う。外はすっかり日が落ちて真っ暗だった。肩と肘の関節の痛みから熱が出ているらしいが、診察は明日になる、と言う話だった。手が痛くて箸が持てない、と言うので、夕食の介助をしてから、施設をあとにした。

今日は、これから母のところへ出かける。痛みが退いて、熱が下がっているとよいのだが。

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母の外泊

8月12日(日)から19日(日)まで、母を老健施設から、外泊で家に連れてきました。3月12日に発病してから、5カ月ぶりの帰宅でした。救急病院からリハビリ病院への転院、そして老健施設への入所だったので、母は今自分がどこにいるのか分からなくなっていたと思います。

車椅子は、結局手放すことができませんでした。介護タクシーを頼んで、車椅子のまま家に入りました。バリヤフリー仕様になっていないので、部屋の仕切りのわずかな段差が障害になりました。トイレも風呂も神経を使います。夜間のトイレはポータブルトイレを使うように言うのですが、不自由であることの自覚がないので、一人で行こうとしてベッドに戻れずに、床の上に寝ていたことも2度ほどありました。24時間の見守りの大変さが分かりました。

認知症は大分進みました。足の筋力も衰えています。それでも、家にいる時の方が、顔の表情が明るく見えます。テレビを観て一緒に笑います。我が儘も言えるようです。3度の食事の用意とトイレの心配の1週間でしたが、私も嬉しい時間でした。

外泊が終わり、帰りのタクシーの中で、どこへ行くのか、と再三尋ねる母に、老健へ帰るのだと伝えるのは気が重かったです。しかし、翌々日に母を訪ねると、外泊のことは忘れていました。近々家に連れて帰ろうと考えているのですが、それが母にとっての幸せなのか、私の自己満足に過ぎないのか、頭の中で、思いがぐるぐると回っています。

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思うようには

今日は久しぶりの雨がやって来ました。強い日差しに射抜かれてぐったりしていた紫陽花も息を吹き返しています。

今日は週に2回の仕事の日です。昨日病院から帰る時に、「明日は金曜日なので、私は来られないの。ゴメンネ」と母に言うと、「塾の日でしょう。分かってる」と答えてくれました。でも、3分も経つと今日が何日の何曜日か分からなくなるのです。火曜日と金曜日が塾の日で、私が来ないのは分かっていても、今日が何曜日か分からないので、きっと待っているだろうと思います。毎日待っているのに、行った時は時計ばかりを気にして、「もう、夕方だから、あなたも忙しいでしょう。早く帰ったほうがいい」と心配します。

そろそろ退院の時期が来ています。転院してきたのが、4月6日だったので、3カ月が過ぎようとしています。リハビリを終えたら、母を家へ連れて帰るつもりでいました。入院中に認知症は大分進んだように感じていましたが、、それほど心配していませんでした。しかし、担当の医師は、家での24時間の見守りは想像以上に大変な上、転倒事故のリスクも高いと言う理由で、施設の利用を勧めました。

老健(=老人保健施設)に入る事になりました。面接・審査会を経て、受け入れリストに登録になり、連絡を待ちます。老健は特養とは違うので、ここで、リハビリを受けながら家庭復帰を目指します。滞在期間は3カ月から半年。長い人でも1年だそうです。病院ではないので、起床してから就寝するまでの過ごし方は、家にいるような生活になるそうです。医師は、病院よりストレスが少ないので、認知症には良いと話してくれました。

母は「帰りたいけど、無理かしらね」とよく言います。今の病院を退院したら、家に帰れると思っています。私は、老健のことをなかなか上手く母に言えないでいます。少しずつ、これから先のことを伝えていますが、その時は理解してくれても、「そろそろ退院して、家に帰れるかしらね」と言い出します。思うようにならない事が、母にも私にもあります。

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看護学生さん

6月に入って、看護学校に通う学生さんが、実習の為に母の入院している病院に来ていました。母のところにも、担当の学生さんが、毎日来ていました。いつも優しく母に寄り添うようにいてくれました。その学生さんは、愛媛県の出身で、実習が終わると就職活動をしなくてはならない事、愛媛には帰らず、そのまま東京で働くつもりでいる事などを話してくれました。「骨の折れる大変な仕事ですね」と言うと、「好きで選んだ職業ですから」ときっぱりと答えてくれました。3Kといわれる職業ですが、なくてはならない人たちです。もっと彼らの職場環境や労働条件が優遇され、笑顔の爽やかな看護士さんが、希望や夢を持ち続けて働けたら、と思います。

子供の数が減って、ますます老人の数が増えて、未来を誰が担っていくのだろうと考えると、暗い気持ちになります。ロボットに看護・介護される時代になるのでしょうか。

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石原慎太郎 来る ? !

母が入院している病棟に 男性のヘルパーも数人います。食事は、ディールームという所で、他の入院患者と一緒にします。お茶、おしぼりなどを配っているヘルパーの中に年配のロマンスグレー風の人がいます。

母は、その人を「石原慎太郎」だと言います。となりに座っている私にそっと耳打ちします。「ねぇ、あの人、石原慎太郎よ」と。その人を目で追いながら、(そう見えなくもないなぁ)と思います。「石原都知事が ここで働いている訳ないと思うけど」と答えます。「ええ。そう? 違うの? ・・・そうかぁ」と納得したような しないような 顔をします。なんだかおかしくて笑います。母も笑います。

家に帰って、息子に話すと、「拝啓、父上様 のおかみさんみたいだねぇ」と笑っていました。

翌日、母に 「石原慎太郎がいるの?」 と聞くと、「なに言ってるの。いる訳ないじゃない」と言われたのでした。

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転院して1週間

母が 発病してから1カ月、転院してから1週間が 過ぎました。

4月6日の朝に、転院先の病院から病室に迎えがきました。そのとき、偶然部屋にいた看護士さんたちに 「元気でね。頑張ってね」と 声をかけて頂いたので、母は退院して家に帰れると思ってしまいました。ストレッチャーごと車に乗せられ、次に落ち着いた先がまたもや病院(母は分かっていない)のベッドの上だったので、「こんなところに連れてきて」と私に言いました。

看護士さんとの面談をすませ。次に担当医師からの説明を受けました。発病から3週間余りで 母の認知症はかなり進んだようでした。脳出血だけならば、回復して日常生活は問題なく過ごせるようになるが、認知症があることが大きな障害になってくるということでした。自宅に連れて帰れると考えていましたが、先生からは施設も視野に入れて、早めに探しておいて欲しいと言われました。

入院してから、1週間。仕事の日を除いて毎日様子を見に行きます。確かにいろいろ問題があることがわかります。これから2~3カ月後にどれだけ回復するかに かかっています。自分の病状、身体の麻痺が理解できていないための 転倒事故がいちばん心配されることらしく、退院しても24時間の見守りが必要だろうと言われました。認知症が進んでいる母はリハビリの指導もなかなか飲み込めないため、思うような成果が上らないようです。説明を受けるたびに、落ち込みます。

それでも、支えられながら 少し歩行することが できるようになりました。介助なしに 右手で食事をすることもできるようになりつつあります。車椅子への移動も自力でできるようになりました。それでも、勝手にどこかへ行こうとして ベッドを下りるので 目が離せないということがわかります。

病院へ行った日は 病室で 母に音読ドリルや文字を書く練習をするようにしています。読むことも書くことも、一応できるので安心しました。ボチボチやって行くしかないです。

昨日は、家から一番近い施設に資料をもらいに行ってきました。まだまだいろんな問題が山積みなので、すんなり決まりそうもありません。週末には別の施設を見に行く予定です。

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リハビリ病院

26日に医療相談室のケースワーカーの方と面談して、紹介状を送って頂いた病院から書類が通ったので面接に来るようにと連絡をもらいました。そして、面接日が4月2日に決まりました。

昨日、2時間ほどの面談を終えた後 女性のベッドが大変混んでいるので 良い返事ができないかもしれないと 言われて帰って来ました。 たまたま月曜日が審査会の日で、夕方に返事がもらえる事になっていました。 娘に留守を頼んで、わたしは病院へ母の食事の介助に行きました。 結果は、受け入れる事ができますとの事でした。

決定したら早いもので、6日の朝には転院となりました。総合病院の中にある回復期リハビリテーション病棟で およそ3カ月間のリハビリが受けられます。理学療法、作業療法が 午前と午後の40分間あるそうです。 ここで少しでも機能が回復して 家に戻れる事を願っています。本人の頑張りが大きく影響すると思いますが 焦らず欲張らずやってくれたらと思います。

食事はまだまだ介助の必要がありますが、左手でとれるようになりつつあります。病院の食事は塩分コントロールされた薄味のきざみ食なので 美味しくなさそうです。病室に顔を見せると 何もお土産がないの?と 不満そうです。血糖検査もしているので、残念ながら何も差し入れができません。

3カ月が長いのか短いのかわかりませんが、夏の初めには 家に帰れる日が来る事を楽しみにしていきたいです。

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10日が過ぎました

母が12日の朝に入院してから10日が過ぎました。その間、みなさんからたくさんのお見舞いと励ましの言葉をいただきました。本当にありがとうございました。

徐々に回復に向かい 今は車椅子に乗って食堂で食事を頂く事が出来るようになりました。右手が不自由なので介助の方のお世話になっての食事ですが、しっかり食べているとのことでした。

眠ってばかりいた頃に比べると、言葉もしっかりとしてきました。ベッドの上で座っている時間も長くなって、まだ不自由はありますが足も手も動きます。 しっかりしてきたのは良いのですが、オムツをしていてもトイレに行きたいらしく、自分でベッドから下りて床に座っていた所を発見されて、ベッドに固定されてしまいました。歩けない事が分かっていないので、転倒骨折の危険防止のためやむを得ずの処置ですが、見ていて気の毒な状態です。

今日は先生と面談をしました。病状の説明は、血圧も薬を徐々に減らし食事療法で大丈夫だと言う事、不整脈も今はない事、左膝の関節が思いの外悪い事などでした。リハビリも少しずつ始まりましたが、このまますぐ家に帰るのは無理だと思うので ワンクッションおくために、リハビリ専門の病院を紹介するので2カ月後をめどに転院を考えるようにと言われました。来週に医療相談を予約して受ける事になりそうです。

認知症の症状は 今回のことで進んだ様な気がします。毎日顔を見せていても、母は久しぶりと言います。自分が今どこにいるのか。なぜ入院しているのか。病気なのか。何度も聞きます。そして、同じ事の繰り返しになります。自分はどこも悪くないから、早く家に帰りたいと言います。 先日実家の兄がきたときも、兄が帰るときに自分もいっしょに帰るつもりになっていました。 毎日そろそろ帰ろうと思うと言います。確かに病院で何もしないで寝てばかりいる生活は惚けを進行させるような気がしています。

顔にも表情がもどり、時々は文句も出ます。リハビリのために もう一頑張りしてもうらうことになりました。どこまで頑張ってくれるでしょうか・・・  (^。^)

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母の入院

12日の朝、自室で動けなくなっている母を発見した。

大丈夫かと声をかけると 大丈夫と言う返事。

しかし、言葉が不鮮明で右手の動きが鈍い。

救急車を呼ぶ。病院で検査を受ける。

左脳内出血の診断。医師の説明を受ける。出血の量としては少ないので、24時間経過をみて判断を下すが、手術は考えず血圧のコントロールと再出血の防止、脳の腫帳の予防をしながら早期にリハビリに入るとの事。

月・火曜日はICUに入り、水曜日から一般病棟へ移動した。ICUにいる間の方が、意識がはっきりしていて 私に心配いらないので早く帰る様に言っていたが、3日目から症状が出始め朦朧としている様子で眠ってばかりいた。話しかけると辛うじて目を開けるがすぐに眠ってしまう。金曜日までは同じ状態だった。きょうは病室に行くとベッドに座って起きていたので驚く。大分はっきりと話が出来る様になっていた。右手と右足に少し麻痺がみられる。自力で動かす事は出来るが、痛みもある様子。リハビリも木曜日から始まった。認知症の症状の進行も心配だ。これからどの程度の機能回復が望めるかが問題になると思う。理学療法士には自立歩行までと伝えているが・・・。

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母からのお土産

昨日は 母のデイサービスの日だった。

何かしら持って帰ってくる。

前回は「ひな祭り御前」のメニューだった。

今回は

   『日常の五心』   

ハイという 素直な心

スミマセンという 反省の心

オカゲサマという 謙虚な心

ワタシガシマスという 奉仕の心

アリガトウという 感謝の心

  『人生は七十才より』      

七十才にてお迎えあるときは 今留守と言え

八十才にてお迎えあるときは まだまだ早いと言え

九十才にてお迎えあるときは そう急がずともよいと言え

百才にてお迎えあるときは 時機をみてこちらからボツボツ行くと言え

    『人の世は山坂多い旅の道』   

         年令の六十に迎えが来たら

還暦 六十才     とんでもないとつっぱなせ

古希 七十才     未だ未だ早いと追い返せ

喜寿 七十七才  せくな老楽はこれからよ

傘寿 八十才     なんの未だ未だ役に立つ

米寿 八十八才  もう少しお米を食べてから

卒寿 九十才     年令に卒業は無い筈よ

白寿 九十九才  百才のお祝いが済むまでは

茶寿 百八才     未だ未だお茶が飲み足らん

皇寿 百十一才  そろそろゆずろうか日本一

三枚の紙に書かれた 言葉だった。

母の部屋に貼ってあげよう。

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今度 いっしょに

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    ひなまつり御前

*ちらし寿司

*鶏みそ焼き

    ・春の和え物

    ・花かまぼこ

*高野豆腐煮物

*盛り合わせ

     ・豆腐しゅうまい

     ・水ようかん

     ・いちご

*お吸い物(花麸)

*香の物

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これは 昨日の 母のデイサービスでの昼食メニューです。

ひな祭りだった昨日は、昼食もいつもと違う雰囲気で演出されていたようでした。

午後は ボランティアの方々の楽しい演奏もあったようです。

相変わらず、帰宅するとお昼もおやつも頂いていないと言うのですが、昨日は桃の花のイラストが描かれた献立の紙が 荷物の中からでてきたので、分かりました。

水曜日はお風呂に入る日なのですが、母はデイサービスを「日帰り温泉」と思っているようで 「あなたも今度いっしょに 入りに行ったらいいのに」と 私を誘います(^0^*(笑)。

我が家では、デイサービスの日を「日帰り温泉の日」と言うことになりそうです。

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三月になりました

2月22日に 母の目があまり見えていないと言われてから、慌てて24日に眼科へ連れて行きました。

検眼、診察の結果は 両目に白内障の症状がみられるが、高齢であること、日常の生活に不自由がないこと 眼鏡を使っても視力がでないことなどの理由で

「手術の必要なし、眼鏡の必要なし、目薬の必要もなし」と 言われました。

母は、実家に忘れてきた眼鏡を捜したりしていますが、そのうち諦めています。

26日(月)には 先日のケアマネさんと デイサービスでお世話になる施設の担当の方が 面談と契約に来られました。

午後1時に約束をしていたので、早めに母と二人で昼食を済ませて、2時間ほど話をしました。担当の方は、温和な印象の細やかな配慮のできる方で安心しました。

夕方、母は『今日は、お昼を食べなかったから、お腹が空いたわ』と言いました。

人がくるから、早めに食べたことを話した所、4時間ほど前に 人がきて2時間近く話したことをすっかり忘れていました。

昨日28日は 母のデイサービスのデビューでした。

バスタオル、着替えなどに 名前を記入してバッグに詰めながら デイサービスが楽しみになるような話をしました。

初めてで少し不安な顔をしていましたが、昨日は早く起きて8時過ぎのお迎えのバスに乗っていきました。

母を送り出してホッとした気持ちは、子どもを初めて学校へ送り出した気持ちと一緒でした。

3時過ぎに帰宅。楽しかった?  お風呂は大きかったでしょう? の問いかけに

「ええッ  お風呂になんて入って来なかったけど」

「お昼ご飯はなんて 食べなかった。おやつはなかった」

    (あれあれ・・・忘れちゃいましたかぁ)

連絡帳を読むと、隣の席の人と楽しくおしゃべりに花が咲いていたと ありました

「いろいろ 話したりしてきたけど・・・折り紙したわ」

   (ああ、それは覚えていたのね。ヨカッタ)

少しずつなれて、行くのが楽しみになってくれればそれで充分です。

おなかがすいたと言うので 小さなアンパンを一つ食べて、お茶を飲みました。

なれない所へ朝から出かけて疲れたらしく、その後 4時半から6時くらいまで昼寝をしました。6時過ぎに様子をみに行くと 夕方の6時を朝の6時と勘違いするほど、ぐっすり寝たと言っていました。

なれるまで大変なのは、母も私も一緒です。緊張して疲れた一日でした。(;^_^A

次は、土曜日です。

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眼鏡を買いに

今回私の所に来る時、母は家に眼鏡を置いてきてしまいました。

以前から、一つ新しいのを買ったらと 話していたので、不自由はないと言う母を連れて 近所の眼鏡屋さんへいきました。

いくつか眼鏡を持っていたはずですが、今は、一つしかないようです。その一つも、随分昔に作った眼鏡で 大分くたびれていました。 見えるからいいのよと 新しいものを買おうとしないのは、「もったいない」という気持ちが 身体に染みついている世代だからでしょう。

近所のスーパーに車をとめて、散歩を兼ねて少し歩きました。

杖をついてゆっくり歩く母の後ろをついて行きます。

背は小さくなりました。背中も丸くなりました。 少し歩くと、腰を叩いて立ち止まります。

私の足なら5分で歩く道を 30分かけて歩きました。

眼鏡屋さんへ入り、検眼をすると、『眼鏡を作る前に、眼科医に診て貰った方がよいです。見えていないみたいですよ』と言われました。

検眼をする母は『見えない。分からない』と繰り返しました。

新聞を読み、クロスワードもナンパラも毎日やっていたので、私にはどういう事か分かりませんでした。 テレビも毎日観ています。クイズ番組の漢字の読みとり問題にもすんなりと答えていました。だから、見えていないと言われても 納得できませんでした。元々老眼はなくて眼鏡なしで新聞を読んでいましたが、近視だったので、遠くはボンヤリとしか見えていなかったのかもしれません。

白内障かもと言われました。眼科へ連れて行く事になりました。

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今朝ブログを開けたら カウンターが10000になっていました。d=(^o^)=b

みなさまのお蔭で ここまで続けてこられました。ありがとうございます。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

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準備に

明日は仕事なので、明後日の母のデイサービス初日の準備は今日しかない。

慌てて、買い物に出かける。

母に服を2着、春物のコートを1着、肌着を2枚、ソックスを2足。それから、パジャマ。

実家から持って来たものもあるが、せめて初めてお出かけする所に 新しい服を用意してあげたかった。

帰宅して、母に試着してもらう。

『あー良かった。出かけるのに何を来ていこうかと、心配していたの』と 言う。

『そーだったの。言ってくれたら良かったのに。でも、今日はそのつもりで買い物い行ったの』と 答えた。

『お風呂にも入るから、肌着も新しいのをもって行きましょうね。何か用意するものはあるのかしらね』など話す。

水曜日にと連絡があったきり、細かい連絡はまだ来ない。

しびれを切らして、さっきケアマネジャーさんへ電話を入れてみた。

もう、帰りましたと 留守番の方の返事。少し、不安が・・・。

急に用意できないものを言われたら困るので 電話をくれるように伝言を頼んだ。

******************

今 電話がありました。 手違いで、水曜日にもう一度面談をして(?)、土曜日から行くことになりそうです。

シャキシャキ バリバリ 仕事をしてくださる感じのケアマネさんですが、どうもウッカリも多そうです。

電話して良かったです。水曜日の朝に 出かける準備をして家の前で待っている所でした(笑)。

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デイサービスに向けて

2月12日の午後に ケアマネージャーさん来訪。

母と夫と私の三人で面談をした。いろいろな書類の記入もあった。

その日、母は割合としっかりしていたので(日によって頭がスッキリしている日と ドンヨリしている日があるようだ) 自分で名前を書いて住所も町名までは書けた。電話番号や地番になると分からないと言う。

面談している間も、私は大丈夫ですと アピールしていた。足が痛くて歩けないと 昨日まで這っていたのに、「痛いけど歩けないほどではないです」と言う具合だった。

『要介護2』なので デイサービスも、ショートステイも利用ができるのだが、取り敢えず、デイサービスを利用して 様子を観る事になった。義姉はショートも利用してほしいと言っていたので、折りを見て体験させてみようと考えている。

今まで、そう言う所へ行った事がないからと 繰り返し言う母に、

『朝 家の前に車でお迎えに来てくれて、手芸やゲームをしたり、お風呂に入ったり、お昼とおやつが出るそうよ。それにお友達もできるかもしれないし・・・夕方までには 家まで送ってくれるから 心配いらないの』と 興味がもてるように何度も話をする。

水曜日と土曜日に行く事に決めたので、少しは曜日の感覚がもてるようになるかなと期待している。

友人のお母さんは 日付が全く分からなくなったが、デイサービスに行くようになってから、しっかりしてきて、『今日は火曜日だからデイサービスに行く日でしょう』と 言って早く起きて自分で身支度をするようになったと 話していた。それまでは 起こさないと何時までも布団の中にいて起きて来なかったらしい。

母も、日によって今が春の終わり頃だったり、冬の始め頃だったりするようだ。以前も、ストーブにあたりながら、『今が一番日が長くて良い季節よねぇ』などと言う事があった。

行き始めてみないと分からないが、母にとって良い刺激となって、行くのが楽しみになると良いと思っている。

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久しぶりの実家でした

8日の昼間 久しぶりに実家へ行ってきました。

長兄夫婦と次兄と私達夫婦で ファミリーレストランで待ち合わせをして、母の事を話し合うのが目的でした。

次兄と会うのも三年ぶりでした。次兄は実家から遠い所に住まっているので母の事は電話で話を聞いている程度のことしか分かっていません。話はもっぱら義姉の気持ちを聞く事が主になりました。同居は私の結婚の翌々月から始まり24年間になりました。その間の義姉と母の間の事は、詳しくは書けないですがいわゆる嫁姑問題です。実の娘でも難しいと感じる母との同居は、想像以上に義姉を苦しめていたのだと改めて思い、申し訳ない気持ちでした。

年老いて誰かの手を必要とし始めている母は、今までの確執を全てではないにしろ忘れています。しかし、長年傷ついた義姉の心は精一杯の状況です。少しでも、義姉が楽になればと 一月毎に母を引き取ってみていますが、それにも限界が近づいているのを感じました。義姉は近くに住む自分の両親の面倒も週三回の割合でみにいっています。しかし、自分の両親の事は 身体が疲れても心が動いているから面倒をみる事は大変だけれど出来るが、母に対しては心が冷えているので 何をするのも疲労感を感じてしまう事、先の見えない介護の実態に、自分の健康にも不安がある事、まもなく60歳になろうとしている自分の人生の楽しみも欲しいと話し、長兄は この先母が自分の身の回りの事が出来なくなった時には、施設という選択肢も考えの中に入れておいてほしいと話しました。直接面倒をみる事のない次兄は 頷くことしか出来ません。男が現役で働いている限り、家で介護をすると言う事は 嫁や娘の役割である現実は、今も昔も少しも変わっていないからです。

娘は、おばあちゃんは このまま家にいてもいいんじゃないのと 言ってくれます。息子も構わないと 言います。夫は何も言いませんが いつでも母が来る事を快く受け入れてくれています。それでも私の心は揺れ動きます。義姉はお金の管理は娘の私にして欲しいと希望しました。二人の兄も「お前が持っているのが良いだろう」と言いました。結局 母の部屋のあちこちに散乱している、通帳や証書や印鑑を預って帰って来ました。信頼してくれる事は有り難いのですが それだけでも責任が重くのしかかってきています。

あるはずの証書が見当たりませんが、銀行は電話では全く話が出来ません。昨日も、延々と担当の人と話をしましたが、結局は話の分からない母を連れて身分証明書と母と私の親子関係を証明できる書類(戸籍抄本)を持って 窓口に行く事しか方法がないようです。通帳も何度も再発行をしてもらっているので、今あるものが最新のものなのか、それとも無くなったと思っていて後から出てきたものなのかも 分からない状態です。改印届けをだしたものや紛失したものなど印鑑も同じような状況です。

これから認知症の患者が増えていくにしたがって こういう問題も出てくる筈だと思います。家族や子供がいる人はまだ何とかなるのでしょうが、いない人はどうなるのだろうと つくづく考えてしまいます。 介護に直面されている方々はどうされているのでしょう?

私は、とにかくボケが来る前に 煩わしい事はきちんと書き留めて残しておかなくてはと 考え始めています。小心者の私は 「あとは野となれ山となれ」と 腹をくくれるほどの人間にもなれません。

さて、これからしばらくの間、こんな母との会話が予想されます。

『印鑑がないんだけれど』  『私が預っているわよ』

『通帳がないんだれど』 『私が預っているわよ』

『私のお金がないんだけれど』 『私が預っているわよ』

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