小学校の校歌

雨が降ったり、北風の吹く寒い日が続いていたが、今日は風もなく晴天に恵まれた。洗濯物をどっさりして、布団を干してと、天気が良い日は主婦は忙しい。

夫は今日も早朝から、山へ芝刈りに否ゴルフに行っている。

こんな日は本当は大掃除をするはずなのだが、どうも気分が乗らない。気分が乗らないときは無理をしないことにして、鬼のいぬまのなんとやら・・・で、のんびり好きなことをしようと決めた。

あれから、少しずつフルートを続けている。「メリーさんの羊」をマスターし、「アメージンググレイス」「少年時代」「スマイル」「遠き山に日は落ちて」などが吹けるようになった。上手いか下手かは別として、とりあえず吹ける。

小学生のころ、リコーダーを吹くのが好きだった。今日は小学校の校歌をウン十年ぶりにフルートで吹いてみた。驚くことにメロディーがすらすらと出てくる。昨日のことはいとも簡単に忘れてしまうが、昔のことは鮮明に思い出すことができる。これも老化現象かなぁ。

高学年になると鼓笛隊に入ることができた。その中でも小太鼓は難関中の難関で、学年で260人位の中から8名しか選ばれない。まず小太鼓から選抜試験があって、その試験にもれた人は他の楽器へと振り分けられた。私は隣のお姉さんの特訓のおかげで小太鼓の試験に合格することができた。

だから、今でも小学校の校歌を小太鼓で叩くこともできる。小太鼓がたたけても何の足しにもなりませんが、笛が吹けて太鼓が叩ける主婦になれたのだ。

ちなみに、中学校・高校の校歌も歌えます。

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バービー人形

紙人形の次に私の所へ来たのが、あの、「バービー人形」でした。

金髪パーマで、大人の顔をした人形はあまり可愛くなかったです。でも、青いアイシャドーを付けた長い手足の抜群スタイルの人形は私の心を奪いました。

ピンヒールの靴、白いレースのロング手袋。金色のバッグ、フワフワのショール、背中でファスナーを留める黒のロングドレス。まるでアメリカの女優さんみたいでした。

しばらくして、バービー人形のお相手に買ってもらったのが、「リカちゃん人形」でした。栗毛色のロングヘアー、愛くるしい大きな目をしたりかちゃんは、バービーよりもずっと自分の年齢に近い存在でした。初めて買って貰ったリカちゃんは、その頃流行っていたグループサウンズみたいなミリタリールックの服を来ていました。

バービーちゃんやリカちゃんの服は買って貰ったり、母に作って貰ったりして、鳩サブレの缶のなかにいっぱいになりました。友だちと遊ぶ時は、人形と缶を手提げ袋に入れて遊びに行きました。どの子の人形もみな『リカちゃん、バービーちゃん』という名前の人形だったけれど、なんて呼び合ってお人形さんごっこをしていたんだか、思い出せません。

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雨の日の遊び

Photo 子どもの頃は梅雨といったら、シトシト、ジトジト、雨の日が何日も続いたような記憶がある。家のなかも、学校のなかも、うすボンヤリと暗かった。雨が降る静かな日はひとりで留守番はイヤだった。雨の音しか聞こえない。ひとりぼっちなのが身に沁みてくる。

頂き物のハートの形をしたチョコレートの箱 (この箱は多分アメリカ人の人からいただいたものだったと思う。蓋には水色のリボンやレースがいっぱいついていて、それだけでお姫様気分を味わえた) の中にしまってある紙で出来た着せ替え人形で遊んだ。人形の肩に洋服を引っ掛けて遊ぶようになっていて、服の他にハンドバッグやリボンや帽子も付けられた。

隣のアッちゃんやヒロコちゃんが遊びにきてくれると、次兄も混ざって、郵便屋さんごっこをして遊んだ。家の中の隅を自分の住所に見立てて、牛乳石鹸の箱で小さなポストを作って置いておくと、郵便屋さん役の人が配達や回収をした。住所は「四畳半市 お茶の間町」とか「玄関市 下駄箱町」なんて言う名前だった。小さくきったチラシの裏に手紙を書いて、ちょっと覗けば見える所にいる友だちに手紙を書いて遊んだ。それだけで充分楽しかった。

それから、雨戸を閉めて暗くした部屋で、学習雑誌の付録で作ったボール紙製の幻灯機で、押し入れの襖に絵を映して遊んだ。懐中電灯を使うのは兄の役割で、持たせて貰えなかった。手でフィルムを引っ張りながら、簡単なマンガのような絵を見て充分楽しかった。昼間に部屋を暗くして遊ぶ特別な雰囲気がなんともワクワクするものだった。

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炬燵

 子どもの頃、冬は今よりずっと寒かったと思う。住んでいたところは、神奈川県の三浦半島だから、温暖で暮らしやすいはずだったが、思い出す冬は寒い。

 家の作りも、窓はアルミサッシなどではないから、すきま風も入り込んでいたと思う。暖房も、ストーブと炬燵だった。朝、寒くて布団から出られないでいると、隣の部屋の茶の間では、母が掘炬燵の中にガスコンロで火をおこした炭を入れている。その頃の母は、冬はいつも着物の上に白い割烹着を着けていた。布団の中から、炬燵に頭を突っ込んでいる母の大きなお尻を眺めていた。枕元にたたんで置いてある着替えは冷たくなっているので、手を伸ばして布団の中へ引き入れる。しばらく温めてから、えいっと起き上がって着替える。

 湯たんぽのお湯を洗面器に入れて貰って、顔を洗う。炬燵の中に足を突っ込むが、まだ充分温まっていないから、中の足を乗せる台も冷たい。どこにも触れないように足を浮かせて座る。朝食が終わる頃には、炬燵の中もポカポカしてくる。この誘惑を断ち切って、手袋をはめ、コートを着てランドセルを背負う。インフルエンザが流行ってからは、水筒にうがい用のお茶を詰めて貰って、それを斜めに肩からかけて家を出る。舗装されていない道は霜柱が立ち、毎朝それをザクザクと踏みながら登校した。途中、工事現場のおじさん達がドラム缶でたき火をしている。それに少し当たらせてもらうのが楽しみだった。

 雪もひと冬に1回か2回は30センチから50センチほど積もることがあった。雪が降り始めると、嬉しくてワクワクして眠れなかった。雪が降る夜、外には特別な静けさが漂っていた。静かな音と言うのがあるんだと思った。朝、目覚めた時の銀世界に心を震わせた。学校が休みになるのだ。そして、とにかく朝から遊び回っていた。靴下も手袋も長靴もびしょ濡れになって、家に戻る。濡れた靴下と手袋を炬燵の中に挟んで吊るして乾かして貰う。冷たくなって真っ赤になった手足を炬燵の中に突っ込んでいると、しだいにチンチンと温まりかゆくなってくる。そして、また這い出して外へと出かけて行った。

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想い出を絵に描けば

想い出を色で塗れば、明るいみどり

想い出を絵に描けば 丘の上の校舎~♫

と言う歌があります。懐かしい気持ちになる歌です。

先日、夫宛に京都から手紙が届きました。卒業した中学校の閉校式の案内でした。何年か前に、小学校が統廃合となり夫の卒業した小学校は、無くなってしまいました。京都市内の中心地にあった小学校は、統廃合になる直前には、子供の数が激減し、新入生が12人、翌年は7人、などと聞いていました。その時にも、閉校式の案内がきていましたが、東京から行くにはあまりに遠すぎ、行くことはありませんでした。自分の卒業した学校が無くなってしまう寂しさは、想い出も失われるようで、悲しい気持ちになるだろうと思いました。

私の通っていた小学校は、今も実家の近くにあります。もちろん現在は、鉄筋の四階建ての立派な校舎です。昭和38年に入学した小学校は、木造二階建ての薄暗い建物でした。何度かの焼失にあい、第一校舎から第四校舎と呼ばれる建物は渡り廊下で繋がっていましたが、唯一焼失を免れた第四校舎は最も古く、戦前からの建物でした。ボロボロでしたが、作りは一番立派でした。昇降口を入ると、目の前に他の校舎の階段の二倍の広さの階段があり、それはまるで宝塚の舞台や、風と共に去りぬのセットのようです。階段途中に広い踊り場があり、そこから左右に階段が別れます。そして、階段を上りきると吹き抜けになっている二階部分で円形につながっていました。その階段は、雨天の日は子供たちの格好の鬼ごっこの場所になります。階段広間から東南に廊下が走り、教室と図工室などの専門教室に別れていました。

第四校舎は、一階が一年生、二階が四年生と決まっていました。初めての学校は、トイレは汲み取り式で、怖いくらい深く、落ちたら死んじゃうんじゃないかと真剣に思っていました。梅雨時は教室も暗く、窓際に机を寄せて勉強した記憶があります。体育館ではなく、講堂と呼ばれる建物での入学式を終えて教室に入ると、二人がけの木の机の右隅に、自分の名前が貼られていました。女の子は赤い線の縁取りのある名札、男の子は青い線の縁取りでした。私は、廊下側の一番後ろの席でした。隣の男の子の名前は「おがわ ○○」と書かれていました。でも、その男の子は学校に来ていませんでした。入学直前に転居したのかもしれません。私はしばらくお隣さんのいない席で、初めての学校生活をスタートしたのでした。

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